「許す」という勇気

投稿者:
ライフネット生命 スタッフ

梅雨空が鬱陶しい季節になってきました。
ふと思えばこの時期に社員ブログが回ってくるのも3回目。時が経つのは本当に早いものだ。

「足利事件」で無実でありながら17年半もの長い間刑務所に入れられ、再審開始前に釈放された菅家さんが、
「当時取り調べを担当した警察官と検察官を絶対に許すことはできない。」と力強く、怒りで声を震わせながら話されていた姿を知らない人はいないだろう。
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17日には、故郷を訪問し県警に出向いた菅家さんに本部長が謝罪をした姿を見て、
「心から謝っていると感じ、私も許す気持ちになった。」とコメントされた。

17年半もの間、一体どんな思いで塀の中にいたのだろう?
普通に生活していたなら、当たり前に存在していた世界がまったく奪われてしまったのである。
親にも会えない。趣味もできない。好きな時にテレビも観られない。お風呂も満足に入れない。
美味しいご飯も食べられない。綺麗な景色も見られない。好き勝手に話せない。もちろん世の中の移り変わりだって知らない。
何もしていないのに。何故?自分が?と。どれほど叫んだのだろうか?
過ぎた時間は返ってこないし、とうとう親の死に目にも会えなかった。
一生かかっても恨んでも恨みきれないほどの思いではなかったのか?
と考えるだけで気が遠くなる。

が、しかしまるで氷解するかのごとく先のコメントをされた。
テレビに映る姿が、見る物、会う人全てに本当にうれしそうに感謝の思いが全身から溢れ出ていた。
全てをわかったように言うのは憚られるけれど、恐らくこれまで共に無実を訴え、戦ってこられた弁護団の方や、釈放されてからたくさんの人の励ましや、地元の温かい歓迎を受けて頑なな心が癒され、柔らかく「許す」という言葉で表わされるようにほどけていったのではないだろうか。
そして何より気高く自分を守り続けたのは、「潔白である。」という自分だけが知っているゆるがない事実であろう。

他人の恨み辛みをバネにして、それを晴らすために自分の思いを果たそうという人も世の中にはいる。
だけど、その呪縛から解放されることなく、前に進もうとしてもどうしたって限界があるし、たとえ目的が果たされたとしても負の連鎖は、自分に返ってくるという形で皮肉にも繰り返される。
こう考えると「許す」という気持ちは、自分を打ち破る、自分を超える勇気に他ならないと、今回深く考えさせられた。

簡単なことのようで、普通の人はとてもできない事だと思う。

スッキリしないぐずついた今の季節の中で、スッキリ晴れ晴れとした気持ちになるニュースだった。

高尾 美和

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