古いアルバムを見て思ったこと

投稿者:
ライフネット生命 スタッフ

こんにちは。システム部の吉見です。

先月、子どもの七五三参りに行ってきました。
羽織袴を着せられて、いつも以上におどけてみせる子どもの姿を写真に撮りつつ、ふと、自分の子どもの頃の写真が見たいと思い、古いアルバムを引っ張り出してきました。

カビ臭いアルバムのページを繰りつつ思ったことが2つあります。
1つ目は、父が若い、ということ。
まぁ、ウン十年前の姿ゆえ、若いのは当然です。ただ、何と表現すればいいでしょう・・・見慣れたはずの父の姿が不思議なくらい新鮮に、まるで別人のように見えます。なぜ、若い頃の父の姿は、こんなにも新鮮に映るのでしょうか?
あの頃私は、私の子どもと同じくらいの歳で、毎日毎日その姿を追い、見ていました。見ていただけでなく、私の子どもがそうするように、私もその顔を撫で、頬を寄せ、頭をくしゃくしゃにしていたはずです。
なのに、この「見慣れなさ」ときたら・・・?
思うにこれは、父の若い頃の姿を、今の私と同じひとりの男性として見ているからかもしれません。あるいは、同じひとりの大人として、父親として。私より少し若い、そして、同じように仕事を持ち、同じように5歳の男の子を持つ父親。確かに父は、かつてそんなひとりの男性だったのですが、そのときの父の姿は写真でしか見ることができません。父の若い頃の写真が懐かしさではなく新鮮な思いを呼び起こすのは、「思い出したい」のではなく、「見出したい」「発見したい」から。そういう今の私のこころの現われなのかもしれません。私が大人になる前も、父親になる前も、同じ写真を見てきましたが、こんな新鮮さはなかったように思います。それはおそらく、同じひとりの男性としてではなく、単に「自分の父親の若い頃。そして、自分はその子ども。」という視点でしかその写真を見ていなかったからだと思うのです。それゆえ、この新鮮さは、今にしてようやく感じることができるようになった、そんな感覚なのかもしれません。
で、ついでながら。この自分が抱いた新鮮な気持ちにもう少しだけ付き合ってみることにしました。同じひとりの男性として、当時の父と今の私は友達になれるかな。一緒にお酒を飲んだとしたら、どんな話をするのだろう。この七五三参りの写真を撮ったとき、何を思い、できた写真を見てどう感じたんだろうか。等々。色々と妄想してみました。でも、正直、よくわかりません。同じひとりの男性として、私は父のことを、あまりに知らなさ過ぎる。意外というか、予想通りというべきか。

そしてもう1つは、父の写真がとても少ないということ。
カメラは一家に一台。パパはわが家のカメラマン!なんていう時代だったので、写真を撮るのは常に父の役割だったのでしょう。なので、父がアルバム中、最も出現頻度の低いレアキャラであることは容易に首肯できます。加えて、父が写真を撮った動機は、何より自分が見たかったからだと思うのです。つまり父にとって大事なのは被写体であり、自分が写り込むことなんて考えもしなかった。でも、私は私の幼い頃の姿にそんなに関心はありません。むしろ、関心があるのは、その写真を撮った父の方です。「父の写真がとても少ない」という事実は、こうしたニーズの「ズレ」をハッキリと認識させます。
では、こうした「ズレ」はなぜ起きるのでしょうか?
このズレには、写真というものが持っている2つのメッセージ、が関係しているように思えます。2つのメッセージ。その1つ目は、写像にまつわるメッセージです。写像は、撮影した主体が切り取っておきたいと願った一瞬の時間です。なので、撮影主体はそこにメッセージを読み取ろうとします。やっぱり俺に似ているな、とか、この笑顔、よっぽど嬉しかったんだね、とか。そしてもう1つは、その写真が存在することにまつわるメッセージ。その写真を撮影した(生み出した)主体の意思、思いのようなものです。なぜこの瞬間にシャッターを押し、その時何を願ったのかという。撮影主体は決して写真に写ることはありません。その意味で「隠された主体」です。被写体(客体)は、写真が存在するという事実を前にして、この「隠された主体」の意思を読み取ろうとします。
思うに、これら2つのメッセージは、切り取られた一瞬の時間をめぐる、撮影主体と被写体との「チグハグな対話」のようなものかもしれません。なぜなら、メッセージは常にそれを読み取ろうとする主体の側で生成され、何を読み取りたいかという主体の願望を反映します。否、むしろ願望そのものです。そうである以上、ズレは必ず発生します。ゆえに、チグハグです。「父の写真の少なさ」という事実は、この主体間のズレ、チグハグさに気付かされる、典型的な場面なのではないでしょうか。

そもそも、父と私と子どもとが、同じ40歳の男性として語らうことは、現実的には絶対にあり得ません。世代を重ねるとはそういうことです。
また写真は、見る者にとっては、つねにすでに過去のものです。今この瞬間、写真を撮る。でもその写真を見るとき、「今この瞬間」なるものは既に過去へと流転している。そして、この関係は常に成り立つ。そういう意味です。これはまた、逆のことも含意します。つまり、写真は、撮る者にとっては未来に向けたものである、ということ。別言するなら、写真とは、いつの日にか、誰かが、何らかのメッセージを読み取ろうとするものである(そして、写真を撮るという行為とは、その契機を今、生み出す行為である)、ということです。
写真をめぐる時間の流れは、見る者にとっては過去を、撮る者にとっては未来を指しています。そして、逆方向であるがゆえに、両者には交錯の契機が与えられています。そこに意味があるのかもしれません。すなわち、写真を見てもの思うことは、後の世代が前の世代に思いを至すことにより、決して叶わぬ世代間の邂逅を望むこと。そして写真を撮るということは、前の世代が後の世代に思いを至すことによりこれを望むこと、なのではないでしょうか。たとえその結果がチグハグなものであったとしてもです。

ということで、結論。というか、決意を2つばかり。
1つは、同じひとりの男性として、父のことをもっと知っておきたいという思いです。今の父との会話は、どうしても孫を軸にした3世代間の会話になりがちなのですが、そうではなく、これを2世代間の重なりとして捉え直したいと思います。いや、そんなリクツっぽいことはどうでもいいですね。もっと単純に、大人としての父は何を思い仕事をしてきたか、父親としての父は家族に対してどのような思いをもっていたか、そういうことを話してみたいと思います。
そしてもう1つは、ウン十年後、私と同じような思いを私の子どもが抱かぬよう、なるべく、今の姿で写真に写っておこうと思います。今の自分の姿を見ても「若い!」なんて思うことは勿論ないのですが、「若い!」と思ってくれるウン十年後の子どもに向けて。ただ、世代を重ねることは一方で、繰り返すこと、あるいは、(意図せず愚直に)追体験してしまうこと、であるともいえます。なので、ウン十年後、子どもは今の私と全く同じことを思っているかもしれません。でも、それはそれでいいのかな、とも思っています。

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