解体前夜

投稿者:
ライフネット生命 スタッフ

旅行や出張のお土産として置かれているお菓子が、箱に一つ残されている姿をしばしば目にする。
いわゆる「遠慮の塊」と称されるものと認識しているが、そいつを口に放り込み、入っていた箱を片付けるのが数少ない楽しみの一つである。

いや、必ずしも楽しいわけではないが、丈夫な箱なのに分解が容易だったり、複雑な構造をしているのに開いてみたら実は一枚の紙から作られていたりすると、気分が盛り上がる。プラスチック容器だったり、紙でできていてもたくさん糊付けしてあったりすると少々がっかりすることもしたりするが、その当たり外れのあることも含めての箱を片付ける喜び、と言えるかも知れない。
たかがお菓子の箱に注ぎ込まれたアイディアと技術を見ては、「包む」という行為を重んじる日本人ならではのことなのだろうか、などと考えたりもする。

分解したり開いたりして中の構造・骨格を見るのは楽しい。
子どもの頃は、家にピアノの調律師の方が来ると、後ろからそっと見ていたりした(ちなみにピアノはアップライト)。普段はあまり開けることのないフタを開けて、あっちを叩いてはこっちを回す、音に耳を傾けて少しずつ整えていく。楽器はいわば精密機械だし、音というのも繊細なものだから、調律師さんの邪魔をしないように緊張しながら眺めていたものだ。

残念なことには、自分の「構造・骨格を見る」というのが「眺める」で止まってしまい、「観察する」「見抜く」あるいは「再現する」という段階まで行かない。オタクになりきれない所以でもあるが、中の構造を見て「凄い凄ーい!」で終わってしまうのだ。箱を分解して感動はするが、自分でそのような箱を作ることはできない。

そういう表面的な性格であるから、これでもかというくらい「なぜ?」と聞ける人(他人/事象/自分に対して)を羨ましく思うと同時に尊敬している。「なぜ?」「どうして?」「So what?」これは思考の基本であると思うが、なかなかできない。まあ、自分で言うのもなんですが、とても素直なのです。

分けるに分けられない、あるいはいかような切り口もありうるものを分解してはその意味するところを考えるのが自分の仕事の一つであるからして、箱を「再現する」はできないまでも、目の前のさまざまなものごとに対して「眺める」の一歩先へ踏み出したいものである。

数理部 片切

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