くろやぎ

投稿者:
ライフネット生命 スタッフ

こんにちは。システム部の吉見です。

書くという行為は、頭の中にあるアイデアや思いといったようなものを、頭の外に写し取る行為だと思われがちですが、本当にそうでしょうか?

仮に、頭の中にかなりハッキリと、クッキリとした表現対象があるような場合でも、それを言葉で十分に表現できた、なんて経験はほとんどありません。どこか言葉足らずで、いつも何かが欠落しているような気がします。そしてその足りないもの、欠けているものが何なのかを言葉でとらえようとして更に、「表現し切れないもの」を増殖させてしまい、モヤモヤ感が倍増する、といった逆説もしばしばです。でも、そもそも頭の中にハッキリと、クッキリとしたものがあるなんてことは極めて稀で、ほとんどの場合そんなもの、ありゃしません。どこかが必ずモヤっとしてボヤっとしています。キーワードだけ、とか、大雑把なチャートの輪郭だけ、とか。あるいは、どこかで見た風景、色、味、におい、言葉になる前の感情そのもの、感覚そのものしかない時もあります。でも、こうした頭の中を流れるうたかたみたいなものを言葉で掬おうとすると、その刹那、何かが欠け、その後どれだけ言葉を尽くしたとしても漸近的なものにしかならない(あるいは、むしろ離れていってしまう)というもどかしさだけが残ります。このもどかしさは、「やぎさんゆうびん」の童謡みたいなものです。くろやぎさんとしろやぎさんとの間で、最初の手紙の内容をめぐって延々と手紙が繰り返される。でも、いくら繰り返したところで最初の手紙の内容には永久に到達できない。それはすでに欠けてしまった何かだから。もどかしさの正体はこれです。
でも考えてみればこれは当たり前のことかもしれません。言葉というものはそもそも象徴化のための道具です。そして、人間にとって象徴は、後から外からやってきたものです(後天的に学んだ社会的な約束事=コードの集合体なので)。これに対して、イメージや身体性は生まれたときからすでにそこにありました。だから、イメージや身体そのものを言葉で完全に掬い取り、切り取ることなどそもそもできないのです。

それはそうなのですが、頭の中のうたかたを試みに書き出してみると、これが意外と面白いことに気付きます。ふと思いついたキーワードをありのまま書いてみる。勿論、これが未完成、不完全であることは十分に分かっているので、「もうちょっと考えてから・・・」と先延ばししたくなる誘惑にかられますが、ここは「今でしょ!」と自らを鼓舞してぐっと我慢。この思い切りが肝腎です。やってみるとよく分かるのですが、いったん書かれた文字というのは他の言葉をどんどんひき出し、ひき寄せていきます。足りないものを補う、関連するものへとつながる、全く予想だにしていなかったものともつながる、変容する、全体が何かを抽象する、その抽象が具体へと再帰する、と様々なパターンがあるのですが、とにかく言葉は次の言葉を生みだしていきます。言葉だけでなく、図みたいなものでもきっと同じですね。そうしていくうちに、もともと頭の中にあったものとは全く異なるカタチや大きさのものができあがってる、なんてことに。

書くということで代表しましたが、これは描くでも、同じだと思われます。歴史上の天才と言われる人には、驚くほど多作な人が少なからずいます。もちろん、多作な凡人も、寡作な天才もいるので、多作が天才の必要十分条件ではないのですが、これには理由があって、書く(描く)ことは意味(創造)が励起する場そのものであるという秘訣を知り、かつ、これに魅入られたからこそ休むことなくとりつかれたように書き(描き)続けるのではないかと。 仮説(妄想)ですが。

話が大きくなってしまいましたが、なぜこんなことをブログで書いているのかというと、先日ふと自分が使っているノートを見返してみて、そこに書かれているものが、数時間先のための備忘やtodoばかりで、我ながら実に味気ないなと。嗚呼、このままでいいのか、俺。で、試しに、「くろやぎ」と書いてみました。すると、意外にいろいろなことを考えることができたので、この過程を言葉で表現してみようとトライした次第です。もちろん、「言葉にすると何かが欠ける」と書きながらそのことをリアルタイムで嫌というほど味わい、今まさに自己言及的にこれを証明した訳ですが。未熟な私は、くろやぎさんのように泰然自若とはできず。ああ、もどかしい。。。

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