奇妙な感覚

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ライフネット生命 スタッフ

こんにちは。システム部の吉見です。

「リカちゃん人形の足を噛むと救急車の味がする」という話をひと昔前のテレビ番組で見たことがあります。一般視聴者の応募した身近な疑問にタレント探偵が調査して答える、という趣向の番組で、内容があまりにシュールだったこともあり記憶に残っています。
なんでやねん・・・と普通は思うのでしょうが、私には分かる気がしました。私にもこうした他人にうまく説明できない奇妙な感覚があるからです。ただ、味と味、においとにおい、というように同種の感覚の結びつきであり、音に色を感じたり、形に味を感じたりするわけではありません。なので、いわゆる「共感覚」と呼ばれる知覚現象ではないようです。
今回は、そのうちのいくつかをご紹介したいと思います。

■納豆は大仏さまの味
納豆は大仏さまの味がします。東大寺銅造盧舎那仏坐像の味がします。
15メートル近くもある銅像(しかも国宝)なので、大仏さまを食する機会はこれまでありませんでした。ですが、大仏さまの御姿を拝するにつけ納豆に思いを馳せ、納豆を食するにつけ大仏さまに心の中でお参りをしております。
と、書いてはみましたが、我ながらイマイチな表現です。「思いを馳せ、心の中でお参りする」というのはいかにも足りない感じがします。こんな比喩的なものではなく、私の中ではもっとリアルな質感を帯びています。なので、試みに別の表現を。
「今、自分は納豆を食べているのか、それとも、大仏さまの螺髪(らほつ:チリチリの髪)や白毫(びゃくごう:眉間にあるポチ)を食べているのか。ときに私はその区別がつかなくなる」というのはどうかな。うん、こっちの方がしっくりくる。でも、これもちょっといい過ぎなところがあって、さすがに目の前にあるものが発酵した大豆であって、螺髪や白毫でないことは私にも分かっています。また、螺髪や白毫を食べることが、物理的にも生物学的にも、社会的にも倫理的にも能わないことは心得ています。でも、両者の間に味の違いはあるか、と仮に問われたら、私は否と答えるでしょう。まあ、問われることはありませんが。
こうしたクオリア(感覚質)を言葉で伝えるのはとても難しいですね。隔靴掻痒。ただ、言葉を重ねれば重ねるほどシュールというか、あぶない感じになっていくので、このあたりでやめます。

ではなぜ、納豆は大仏さまの味がするのか?
奈良県人である私にとって納豆は完全に外来、新種の食べ物でした。奈良県の中でもとりわけ田舎に住んでいたこともあり、当時、近所のスーパーに納豆なるものは全く売っていませんでした。ちなみに、大阪生まれの両親も祖母も納豆を食べたことはそれまでの人生で一度もないとのこと。にわかには信じがたいのですが、そのくらい当時の関西人にとって納豆は馴染みの薄い食べ物でした。
そんなある日、祖母が生協のカタログで納豆を見付け、試しに買ってみようといい出しました。私がまだ幼稚園児の頃だったと思います。どうも東京あたりには納豆とかいうネバネバした食べ物があって、すごいにおいがするらしい。どんなにおいかはわからないが、とにかく卒倒するくらいに強烈な。私にはそんな(誤った)先入観がすでに形成されていたため、おいしいもの、珍しいものを食べたい、という気持ちではなく、どれだけネバネバしていて、どれだけすごいにおいがするのか、というある種の恐いもの見たさで胸を高鳴らせていました。よくぞ齢六十数歳にして、納豆を買う決心をしてくれた。ばあちゃん、ナイス冒険心。
この納豆という未知の物に対する尋常ならざる期待感と、関西人としての禁忌を密かに犯しているような得もいわれぬ背徳感。こうした興奮と高揚の中で初めて納豆を食べたとき、テレビでたまたま「大仏すす払い」のニュースが流れていたのであります・・・以上。
というのが三十数年来の定説だったのですが、実はこれが誤りであることに先ほど気付きました。この稿を書くにあたって、まぁヒットしないだろうけど、と思いつつ念のため「納豆、大仏」というワードでググってみました。そしたら何とヒット。大仏ブランドの納豆があるではありませんか。おお、これか、これだったのか・・・。恐らく、人生で初めて食べた納豆はこれです。大仏さまが大きくフィーチャーされたパッケージのこの感じ。間違いない。定説の根拠が何となく薄弱だとは思っていたのですが、こんな単純な道理だったとは。しかもこの納豆は奈良県産ということです。あまりの灯台下暗しな感じにちょっとヘコみます。

■恐竜は芝生のにおい
恐竜は芝生のにおいがします。
これは、息子に恐竜ブームが到来した際、図鑑を繰りながら思い出した感覚です。図鑑からどうも書籍らしからぬにおいがする(ような気がする)。でも鼻を近づけてにおいを嗅いでみても紙とインクのにおいしかしません。このにおい(みたいなもの)は何だっけ・・・と思ったとき、瞬時に得心しました。ああ、これは芝生のにおい、芝生と水を含んだ土のにおいだと。

ではなぜ、恐竜は芝生のにおいがするのか?
ちょうど息子と同じ年の頃、私にも恐竜ブームが訪れていました。空前の大ブームです。図鑑をぼろぼろになるまで来る日も来る日も読み耽り、「恐竜が見たい!」と親にねだってやっとのことで博物館に連れていってもらいました。当時の博物館は、恐竜については想像図と化石とレプリカの骨格くらいしかなく、今様のリアルなマネキンなどはありませんでした。でも、恐らく、アロサウルスか何かだったと思いますが、獣脚類の全身骨格を見てものすごい衝撃を受けました。よほど魅入られたのでしょう。今でも、その全身骨格を見上げたときの情景をありありと覚えています。
その時以来(しばらくの間は)、とり憑かれたようにお絵かきも粘土製作もすべて恐竜一筋で貫き通しました。幼稚園のお絵かきの際、お友だちはみな、フワフワした毛に包まれてつぶらな瞳をもつ愛くるしい犬や猫を描いたことでしょう。幸福で恩寵に満ちた世界の表現として。でも当時の私は、眼窩が大きく穿たれた頭蓋骨、捕食者であることを雄弁に物語る牙、尾椎までまっすぐに伸びた脊椎、その脊椎から屹立した鋭利な肋骨、あり得ない場所から生え出た異様に長くて細い四肢、そしてその先端に不気味な湾曲をもつ3本の鉤爪、という画風で統一していました。たとえ犬や猫であっても。しかも、骨の白色を表現する技法を持ち合わせていなかったため、使うクレヨンは黒一色。年端もいかない子どもの絵にあるまじき禍々しさです。その絵を見たときの幼稚園のお友だち、先生、そして両親がいかに戦慄したであろうかは想像に難くありません。実際、親には、あの時は心底、心配したわ、と後々までいわれ続けました。

話が長くなりましたが、要は恐竜ブームというよりは、骨格ブームだったようです。なので、当時の私が自らに課した最大のミッションは、庭で化石を発掘し、骨格を組み上げることでした。日がな一日、スコップで無差別に庭中を掘り起こし、石の裏をのぞき込んでは化石を探索する。という生活を送っていました。これにはさすがに両親も辟易したようで、この庭には化石は無いということを何とか諭して聞かせたそうです。
化石がないのならその代わりになるものを、ということで、いろいろと探し回った挙句、発見したのが芝生でした。何で芝生かというと、芝生には地を這うように水平方向に延びる茎があります。その名も匍匐(ほふく)茎というそうです。この匍匐茎にはほぼ等間隔に結節点があり、そこからさらに茎が伸びていくという構造になっています。あと、茎にはたくさんの節があります。何がいいたいのかというと、節ばったメインの匍匐茎が脊椎で、その匍匐茎からほぼ等間隔に伸び出た茎が肋骨のようであり、見ようによっては脊椎動物の骨格に見えなくもないのです(あくまで主観)。私にとっては大発見でした。いいもの見付けたとばかりに、庭中の芝生をメリメリと引き抜き、ブチブチと引きちぎり、日干しにして骨格標本をつくる。そしてこれらを並べて博物館と称し悦に入る。そんな遊びに夢中になっていました。
夏の盛り、昼下がり。蝉の声。水撒き後のむせかえるような湿気、水を含んだ土のにおい。匍匐茎の硬さ、手のひらに残った青いにおい。これらの入り混じったクオリアと恐竜とが私の中では今も分かちがたく結びついています。

ほかにも、例えば、「鉛筆の芯は歯医者の味」とか「水車が回る音はお墓の音」といった奇妙な感覚もありますが、これらはまた別の機会に。

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