懐かしさとは?

投稿者:
ライフネット生命 スタッフ

こんにちは。吉見です。

懐かしさとは、何でしょうか?

急に寒くなってきたので、先日、冬物を出しました。その際、妻がクローゼットの奥から古い本を引っ張り出してきました。古いといっても数年前のもので、現在7歳になる長男が2~3歳の頃に読んでいた本です。いわゆる名作絵本の類ではなく、他愛も無い本ばかりで、よくこんなものをとっておいたな、というのが正直な感想でした。この中に、長男が特に愛読していた電車の本(写真とイラストで関東近郊の各線を紹介した本。本当に他愛ない。)があり、愛読していただけに手垢でボロボロ。あちこち破れ、落書きはあるわ、セロハンテープでベタベタと補綴してあるわ、まぁ、それはそれは年季の入った状態でした。妻はいずれ第二子ができたときに読ませようと何気なく保管していたようですが、これを見た長男は喜色をあらわにし、「わぁ、懐かしぃ」とその本に飛びつきました。そのとき、ふとした違和感を覚えました。7歳の子どもにも懐かしいという気持ちはわかるのかな、と。

そこで、長男に問うてみるに、

「懐かしいって何?」
「懐かしいは懐かしいだよ。」
「・・・」
「じゃぁ、懐かしいってどんな気持ち?」
「3歳のときの気持ち。」
「3歳のときの気持ちを覚えているの?」
「うんうん。覚えてない。思いだしたの。」
「・・・」

覚えていないことと思いだすこと、忘れていることと思いだせないこと、みたいな、難しい命題を提示されたようで、何かやられた感じになりました(長男本人はそんなこと微塵もわかってはいないですが)。

ちなみに辞書によると、懐かしいとは、「かつて慣れ親しんだ人や事物を思い出して、昔にもどったようで楽しい。(デジタル大辞泉)」だそうです。

でも、懐かしいってただ単に「楽しい」くらいの状態でしょうか。いわく名状しがたく抗しがたい、人をとりこにするような何かがあるように思えるのです。

こうした懐かしさのもつ魅力というか、魔力のようなものの本質をよくつかんでいる映画に『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』という作品があります。2001年公開の作品です。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、クレヨンしんちゃんの映画シリーズは佳作ぞろいで、とりわけ本作は名作と呼べる作品だと思います(アニメとかのジャンルを超えて、私の個人的な名作映画ベスト10には必ず入ります)。

ネタバレになりますが、まずはあらすじをご紹介します。

しんちゃんが住む埼玉県春日部市に「20世紀博」というテーマパークができ、大人たちはそのテーマパークにしだいにのめりこんでいきます。そこは、「お客さまがお客さま自身のあらゆる思い出と出会える場」をコンセプトにしたテーマパークで、懐かしいキャラクターやおもちゃ、遊び場、食べ物が何でもそろっています。かつて憧れたヒーローやヒロインになりきることができる体験型アトラクションもあります。しかし実はこのテーマパークが、とある秘密結社の洗脳施設であることが明らかになります。そしてある朝、世界は開き直ったように豹変します。この秘密結社の策謀により、大人たちが集団失踪してしまうのです。残されたしんのすけたちの運命やいかに。というのがあらましです。

この秘密結社はその名も「Yesterday Once More」。首魁はケンとチャコという名の男女2人組です。ケンとチャコの野望は、もう一度未来をつくり直すこと。そのために彼らは、もう一度過去に戻ってすべてをリセットしようと試みます。ただ、タイムマシンを使って過去に遡るわけではありません。今を過去にしてしまおうと考えるのです。
ケンとチャコが「今を過去にする」ために使ったのが「懐かしさ」でした。懐かしさに魅入られ、そのとりこになった人々は、現実の身体以外のあらゆるものが、「その時代」に回帰してしまいます。記憶や感情、好みやセンスも(なので、しんのすけの両親も自分たちが野原一家であることがわからなくなってしまいます)。日本人全員を「その時代」に回帰させること。これが「今を過去にする」ということの意味です。そして、人々を懐かしさのとりこにするために「におい」という道具が利用されます。以下、『 』内は作中のケンのせりふです。

『昔はその時代のにおいがあった。俺はそのにおいを手に入れたんだ。』

この「におい」は大人たちを徐々に、知らぬ間に蝕んでいきます。大人たちが「20世紀博」にかくものめりこんだのは、この「におい」がゆえでした。そして、ケンとチャコはこの「におい」を全国津々浦々に拡散、浸透させるべく「におい」の増幅装置をつくります。その増幅装置とは「20世紀博」の中につくられた人工的な町と、そこに住む「住人」たちの生活です。その町は「夕日町」と名付けられ、昭和30年代の街並みが再現されています。商店街に八百屋さん、魚屋さん、お肉屋さんが並び、角にはたばこ屋さんがある。そんないつかどこかで見た風景です。

『夕焼けは人を振り返らせる。だからここはいつも夕方だ。』

映画のセットみたいなもんだろう。よくできていても所詮はニセモノだ!としんのすけの父。

『俺も住人たちもそう思ってない。俺たちにとってはここが現実で、外はニセモノの世界だ。においがないからな。』
『ここの住人たちはこの町を愛し、変わることのない過去を生きている。』

そして、ケンの口から野望の真相が語られます。

『昔、外がこの町と同じ姿だった頃、人々は夢や希望にあふれていた。21世紀はあんなに輝いていたのに。今の日本にあふれているのは、汚いカネと燃えないゴミくらいだ。これが本当にあの21世紀なのか』
『現実の21世紀の放つにおいは俺には耐えがたい悪臭だ。』
『もう一度やり直さなければいけない。日本人がこの町の住人たちのように、まだ心をもって生きていたあの頃まで戻って。未来が信じられたあの頃まで。』
『未来は常にある。俺たちが昔あこがれた夢の21世紀が。』

ちなみに、子どもにはこの「におい」は効きません。懐かしさがわからないからです。そこでしんのすけは、この「におい」に対抗できる「今のにおい」を手に入れ(これが何であるかは是非本作をご覧ください)、未来を生きること、大人になることを自ら選びます。しんのすけの家族も、家族に戻ること、家族として未来を生きることを選びます。そして戦います。そういうお話でした。

物語の本筋ではないのですが、「懐かしさ」に関する印象的なシーンがいくつかあったのでご紹介したいと思います。ひとつは、しんのすけの同級生たちの会話です。

『ねぇ、この20世紀博ができてから、大人たち、変じゃない?』
『いくら子どもの頃が懐かしいからって、あのハマリ方は普通じゃないよ。』
『懐かしいって、そんなにいいものなのかなぁ?』
『さぁ。やっぱり大人にならないとわからないんじゃない?』

これは今回、古い本を見て長男が「わぁ、懐かしぃ」と叫んだときに感じた私の違和感と、同じことを語っています。

そしてもうひとつは、しんのすけの父が家族を連れて、夕日町からの脱出を試みるシーンです。夕日を背に、わけもわからずあふれだす涙を押さえきれず、嗚咽しながらこう叫びます。

『チキショー!何だってここはこんなに懐かしいんだ!』
『おい!出口はどこだ?早く出ねえと懐かしくて頭おかしくなりそうなんだよ!』

しんのすけの父の叫びは、懐かしさというものが単なる「楽しい」を超えた何か(抗しがたい力をもった、ときに恐ろしい何か)であることを、象徴的に伝えています。

さて再び。懐かしさとは、一体何なのでしょうか?

思うに、思いだすということは、快楽と分かちがたく結びついているのかもしれません。その方が生存に適しているから、とかいう(いつもの)理由で。喉まで出かかっている、思いだせそうで思いだせない人の名前をふとした瞬間に思い出すと、結構スッキリ爽快だったりします。でもこんな単語レベル、ピンポイントの思いだしではなく、ある時代、例えば、幼少期とか、学生時代みたいな莫大な量の情報を、総体としてまるごと(世界そのものの質感を伴って)思いだしたときの快楽は、この比ではありません。この「思いだし快楽」の総量が、懐かしいというものの正体なのではないでしょうか。何ら裏付けのない直観ですが。

でも、懐かしさに耽溺していては、進歩はありません。懐かしさは、過去の情報を(そしてこれが文脈を喪失した模造品、類似品であることを知りつつ)再消費しているに過ぎず、何ら新しいものを生みだしてはいないからです。夕日町の住人たちが、変わることのない過去を生き続けるように。「人類の進歩と調和」をテーマにした大阪万博。そのセットが「20世紀博」のメインアトラクションであったのは何とも皮肉です。
そういう意味で、仮にケンとチャコが「におい」により人々の今を過去に変えることができたとしても、その過去は過去のままであって、永遠に今(すなわち、つくり直した未来)には到達できなかったかもしれません。

以上、急に寒くなってきたこの1週間に考えた、よしなしごとでした。

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