意外に知らないマーケティングのルーツ

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ライフネット生命 スタッフ

マーケティングの「やり方」に関する情報は基礎から応用までネット上に溢れています。ところがその歴史、特にマーケティングのルーツについては、ほとんど情報がありません。書籍を手にとって調べてみました。

マーケティングの理論化は、20世紀初頭のアメリカで始まりました。その基礎は流通に関する理論だったようです。1906年にオハイオ州立大学で開講された講座「流通・調整制度」が、「商業制度」という名称を経て1916年頃「マーケティング」に改名されています。また1902年、ミシガン大学で開講された「アメリカ合衆国における流通的・調整的産業」という講座でも、その概要に「商品マーケティング」という言葉が出てきます。いずれにせよ、製品が消費者に届く直前のプロセス、つまり「selling」とは区別された概念だったようです。1910年にウィスコンシン大学で「マーケティング手法」という講座を担当したラルフ・スター・バトラーは、マーケティングを「製品のプロモーターが、セールスマンや広告を実際に用いる前に、なさねばならないすべて」としています。

ではなぜこの時期のアメリカで、流通に関する理論が「マーケティング」へと進化したのでしょうか。一つは理論側の要請によるものです。1860年から1900年までの間に、アメリカの人口は3140万人から9190万人へと急増しました。わずか40年で3倍という急激な商圏の拡大は、それまで経済学の基礎をなしていた理論、すなわちアダム・スミスの「神の見えざる手」に対して疑義を突きつけます。神の見えざる手=需要と供給の交差点で価格が決まるという理論は、売り手と買い手双方が同じ情報を持っているという前提に立っています。ところが急激な商圏拡大の結果、生産者や中間業者の影響が強くなり、消費者との間に情報格差が発生します。もはや市場が「自動的に」価格を調整するという素朴な議論は信頼されません。本当は生産者や中間業者が価格を決めているのではないか。そんな疑問が生まれます。そこで改めて、生産者から消費者の間に存在するシステムを整理し、そこから生まれる付加価値に関する理論がもとめられたのです。

そしてもう一つは実務側の要請です。急激な人口増加は、実際の流通業務に歪みを起こしました。特に腐敗しやすい農産物の流通は、生産地から遠かったり、大規模な貯蔵施設がないところほど高コスト化しており、それがそのまま小売価格に転嫁されていたのです。この問題を解決するため、生産者から消費者に至る過程の解明とその最適化が求められました。

理論/実務両面ともに急激な人口増加が背景にあるという見立ては、マーケティングの研究がミシガン、オハイオなどアメリカ中西部=フロンティアを中心に発展したという事実によって裏付けられます。マーケティングは、文字通り市場の物理的な開拓とともに発展したのです。またここからは私の推測ですが、1900年代初頭というタイミング自体も重要だったのでしょう。折しもそれはフォードがベルトコンベアーによる大量生産を始める直前、フォーディズムの前夜です。その後アメリカには第一次世界大戦特需で大量の資本が流れ込みます。「生産=フォーディズム・流通=マーケティング・資本=それらを支える初期投資」が大きな循環を始めます。マーケティングの誕生は、その後100年に渡って世界経済を支配するアメリカ資本主義の夜明けでもあったのです。

いずれにせよ、生産者と消費者の間にどんな要素があるかを俯瞰して把握し、最適化する行為そのものは、100年経った今でもマーケティングの基礎です。ルーツをたどると、今も昔も変わらない、そのビジネスの本質が見えてくる。そんな気がしました。

<参考文献>
・ロバート・バーテルズ著 山中豊国訳 『マーケティング学説の発展』(1993)

お申し込みサポート部 伊藤海彦


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