僕がオジさんになって「私がオバさんになっても」を聴いたときのはなし

投稿者:
ライフネット生命 スタッフ

ここ1年週2回の筋トレをしており、すっかりルーチン化しています。

筋トレの魅力はというと、
・ダークサイドに陥りそうな自分をダンベルが救ってくれる
・筋肉を鏡で見た時に、自分が強くて優秀なオスだとちょっとだけ自信がつく
・「今日は筋トレしたくないなぁ」と思っても、実際に筋トレをすると後悔することはなく、意志の力で気分をねじ伏せる感覚を味わえる
などなど、いくらでもあげられます。

先日、いつものようにジムでダンベルと格闘しているとき、設置してあるテレビで森高千里の「私がオバさんになっても」を聴く機会がありました。
おそらく20数年ぶりに聴いたと思いますが、聴いたときには何とも言えない感覚に襲われ、しばらくの間呆然としてしまいました。
普通だと、自分が若い時に流行った歌を聴いた時は、自分のアイデンティティの一部がそこにあるような居心地の良さを感じるものですが、その時は、ミスチルやサザンを聴いたときのような感覚とは全く別の、居心地の悪さというか、耳が素直にその歌を受け付けないような感覚でした。
それは、25年前、自分が高校生の時に聴いていたときには、自分が年をとってオジさんになることすら思いもしなかったし、その時は大人の歌のように感じたこの歌を自分が本当にオジさんになって聴くとは想像すらできなかったからだと思います。
また、森高千里が25年前からデロリアンに乗ってワープしてきたかのような全く変わらない風貌と、加齢に逆らうように必死で筋トレをしている自分とのコントラストもその感覚を増長させたかもしれません。

それ以降、何度か「私がオバさんになっても」を聴いており、このブログもリピート再生して聞きながら書いていますが、自分がオジさんになったことを少しだけ受け入れたせいか、自分の中にすーっと入ってくるうようになっています。

とりあえず、「かっこいいこと言ってもお腹が出てる」と言われないよう、今後も筋トレは続けたいと思います。

経営企画部 成相


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